私の回復の経験 ゆき

 アディクトのゆきです。私のプライマリー・アディクションは、「恐れに支配される生き方」の依存です。つまり、人や物事を異常に恐れ、異常な見捨てられ不安、言うべき時に言えない、先行き不安満載など、そのような生き方にどっぷり浸かっていました。次には恋愛依存がありました。これから、私の回復への道のりを話したいと思います。

 私は中学の時、暴言暴力的で支配的、それでいて共依存の母から自由になりたい、母の支配から自由になりたい、必ず、自分の人生は自分で勝ちとり自由になる、と決意していました。

 しかし、現実はそんな思いとは逆で、20歳頃には、母の言いなりになっていました。母が怖くて言えない数々、自分の人生は自分でという思いがあるのに、それを貫けない自分がいて、とても辛かった。それでも、23歳の学生時、就職活動時期になり、地元に帰って来いという母に対して、ここで母の言いなりになったら、一生、母の支配になると思い、口から心臓が出てきそうなほど怖かったが、私は「絶対に帰らない。こっちで就職する」と言い切りました。母は来月からの仕送りはしない。学費も出さない。と脅して来ましたが、それでも、帰らないと譲らず、結局、母が諦めてくれました。これを機に母の私へのコントロールもなくなっていき、私は母から自由になっていきました。

 30歳を過ぎて、関東に引っ越し、いくつかの恋愛をしましたが、どれも健全な恋愛とは言えず、振り返ると無理して自分を偽っていた恋愛でした。そこで、なんか変かも?母の影響をまだ受けているのではないか?と思い、ACの自助グループに行きました。しかし、定期的に通うことなく、何か思いつめると行くという状態でした。他にカウンセリングやインナーチャイルドワークも受けました。自分の意見を伝えれるようにとアサーティブトレーニングも行きました。自己啓発本やACの本、依存症の本、沢山読みました。それなりの効果はあったようで、自分の自己評価はあがっていきました。そして、私は安心していました。

 しかし、その後、現実は転落していきました。40歳前にして私は、離婚し、健康も失い、仕事もできない状態で、自殺願望が毎日の状態、かろうじて生きていました。そして、また自助グループに通いだし、少しずつ気持ちは楽になっていきました。そして、ある日、なんでこんなになったんだろう?と振り返りました。それでやっと気が付いたのです。元旦那、元上司に対して母と同じように恐れ、自分に正直にならず、言うべきことも言わず、母に対する態度と同じように接した、その結果だったと。私は母から自由になったものの、母から受けた影響に私はまだ支配されていたのだと。

 このときめまいがして、立ち上がれませんでした。「こんなにやってきたのに、ダメだった。私には無理です。神様、何でもするから助けてください。」とひざまずいていました。

これが、初めて無力を認め、降伏した日です。

 その後、12STEPを教わり、棚卸(短所を知るための自分の振り返り)をしてわかったことですが、母の影響を今も受けていたのに気づいた時は、母を恨みましたが、それは母とは何も関係ないということです。影響は受けたには受けたが、それは子供の時だけで終わらせれば、良かったのです。「地元には帰らない」と言い切って、母から自由になった時に、影響を受けた生き方も捨てれば良かったのです。

 ただ、母から自由になっただけで、自分を変えようとしなかったのは私自身でした。変えるどころか、影響を受けて身に着けた生き方にしがみついていました。母のせいで人生がどん底になったのではなかった。私は自分を変えようとしなかったから、自分でどん底になったのだとわかりました。

 そして、日々の棚卸をし続け、ある時、実家に帰り、あるぬいぐるみを持って帰ろうとしました。それは、子供の時、母に叩かれ網膜剥離になった時にお見舞いに先生がくれたものでした。しかし、母はそれを取り上げ、渡してくれません。母娘で、返せ、返さないのバトルが始まりました。母が「今更、何で持って帰るの!」と言い出し、「あなたに傷付けられた子供頃の自分を癒すためだ」と責めるように言いかけました。が、後ろから「母を責めるのはあなたの仕事ではない!」と引き下がれと言わんばかりの声が聞こえてきました。「相手が悪いか悪くないかは神が決めることだ」とも。そして、私の怒りのアドレナリンは下降していきました。持って帰れないかもしれない。何ができるのだろう?持って帰れるかはコントロールできない。ただ、返してほしいと。伝えることはできる。そして、とても落ち着いた気持ちと口調で「母さん、持って帰りたいから返してほしい」と伝えました。母は嫌がり、結局は母が手を緩めた隙に取り戻すことができました。

 しかし、ぬいぐるみはどうでも良くなっていました。部屋に戻り、とても穏やかな空気に包まれていたのです。あれほど怖かった母、私は今まで言いたくても我慢するか、言うために戦争で戦うかのように全身の神経を集めて戦う気持ちをふり絞って言っていたため伝えても疲れ切っていた。が、この日は、戦うわけでもなく、逃げるわけでもなく、ただ平静に伝えていた。こんな日は一度もなかった。

「もう、戦わなくていい、母が変わらなくても、私は自由になれるんだ。幸せになれるんだ。」と思った。やっと、自由の扉が開いた。中学から自由になりたいと戦っても、40前にして完全敗北したのに、神様は一年もたたずにいとも簡単に自由の扉を開けてくれた。神様の偉大さを初めて知り、神様に心底、感謝しました。

 しかし、stepは続けてはいたものの、一番、気にしていた人への埋め合わせ(傷付けた人への償い)は先延ばししていました。

 その後、仕事に復帰し、日々を普通に暮らせるようになりました。自殺願望もないし、特に大きな問題もないという日々が続いていました。でも、プログラムを徹底してやったという感覚がなく、気がかりなまま数年たちました。そして、AAAに出会いました。そこで、新しいスポンサーにもう一度、12stepを1から教わりました。そして、4つの絶対(神様の意志を知るための基準のようなもので、絶対の正直、絶対の純潔、絶対の無私、絶対の愛の4つ)を意識してステップをするようにと言ってくれました。

 以前も棚卸したけど、埋め合わせせず、前から気になっていたことを再度、棚卸しました。

 私は小学生の時に母が怒った勢いで私の目を叩き、網膜剥離になりました。しかし、母が怖かった私は、先生や友人等、周りの人達に正直に言いませんでした。そして、たまたま、1か月前に同級生が蹴ったボールが目に当たって目の周囲にあざが出来た事があり、眼科医は「数か月前の衝撃で、網膜剥離になることがある」と言ったので、周りはそれが原因だと思い込みました。

 そして、私はその同級生に正直に言わないばかりか、母への怒りを彼にぶつけ、人を介していじめました。彼は苦しみ数か月後、その子の両親が私の家に謝罪に来ました。それでも、私も母も正直に言いませんでした。それから30年以上、そのままにしていました。

 新しいスポンサーから謝ったら、どうなると思う?を聞かれ、怒るかもしれないが、彼は、罪(濡れ衣)から解放されて楽になると思いました。

 そして、彼の実家に埋め合わせに行きました。彼の母に本当のことを伝え謝りました。彼女は、許してくれました。本人は県外にいて会えず、私は電話ででも謝りたいと言いました。彼の母が、扉を閉めて、彼に電話し、彼は出たのですが、ドア越しから聞こえてきたのは、彼の母が「ちゃんと話を聞きなさい。『何をしたらいいんだ。』じゃなくて、謝りたいって来てるのよ」と何度も強く言っている声でした。彼は、私の名前を聞いただけで、話を聞く余裕もないくらい、今も苦しんでいたこと、彼にとってはずっと苦しんでいたことがわかりました。それを知り、私はとても苦しくなりました。自分の濡れ衣で、彼は30年も苦しんでいたこと、小学生時代の事といっても、大人になってからでも謝りに行こうと思えばいつでも行けた。なのに行かなかった。埋め合わせに行って、さらに罪悪感で押しつぶされそうになった。謝罪に行かなかったのは、恐れと自己中心さが原因だった。恐れと自己中心性は、これほどまでに人を傷付けるナイフになるのだと初めて気づきました。
 そして、私はそれまで自分の人生がまたどん底にならないように12stepをやり続けなければと思っていました。でも、そうではなく、stepをやり続けなければいけない理由は、stepを止めたら、また自分のこの恐れと自己中心性で人の心をナイフのように傷付けることになりかねない。だから、自分のためではなく、二度とあのように人を傷付けないためにstepをやり続けなければならないと神様は教えてくれました。

 それに気づいた日から1か月後、突然、彼から留守電話が入っていました。彼は急用で実家に帰ってきて、「さっき母から事情を聞ききました。連絡ください。」と。

 彼に電話をして、直接、謝りたいと伝え、彼の実家に行きました。彼は実家に入れてくれ、私は自分が網膜剥離になったのは、母が叩いたからであること。それを誰にも言わずにあなたのせいにしていたこと。そして、クラスメイトを使っていじめ、母への怒りをあなたにぶつけて、傷付けてしまったこと。を話して謝りました。

 彼は「本当のことを教えてくれて、ありがとう。」と言ってくれ、私が黙っていたことに対しても「(お母さんが)怖かったんだから、仕方ないよ。」と笑顔で言ってくれました。やっと、心が救われた気持ちになりました。

 神様は私が会って一番埋め合わせをしたかった彼に、初めから会わせてくれなかった。「あなたの恐れと自己中心さはナイフと同じで、人をそこまで傷付ける刃物となることを肝に銘じておきなさい。」と私に心底、感じさせるためだったと思います。それを強く感じた後に、彼は実家に帰ってきて、母から真実を知り、私は彼に会い埋め合わせができた。すべては、神様の完璧な計画だったと思います。 

 初めに彼の実家に行った後は、埋め合わせして傷ついて、神様の意志に従うってどうなの?と正直、思った気持ちもありました。しかし、神様は裏切らない。神様の意志に従えば、その直後、最悪の状態となったとしても、それも神様の計画で、いずれ必ず、幸せの道に繋がっているんだと確信しました。

 今すぐ結果が出ないと不満や不安になり、先行き不安が強かった私にとって、この確信は生きていく糧になりました。どんな結果になっても、神様の意志に従えば、いつかわからなくとも、必ず神様が描いている幸せのへ道に繋がっているという確信は、彼への罪悪感の解放以上の神様からのプレゼントでした。

 そして、私は四つの絶対に出会えて良かったと思う。彼への埋め合わせを母がまだ生きてるし、今はしない方がいいと思い先延ばししていたのは、ただ、私の利己的な保身だったと思います。それに気づかせてくれたのも、4つの絶対という指針に出会えたからです。4つの絶対は神様の意志。4つの絶対に照らし合わせながら、棚卸や埋め合わせをすることで、神様が自分に求めているものが、わかりやすくなりました。

 しかし、そんな恵みを神様からもらっていましたが、母とのぬいぐるみの言い合いの時や彼への埋め合わせの時の、神様からのプレゼントが素晴らしすぎて、その後、神様の恵みを感じにくくなっていきました。

 その後、普段の生活に大きな問題は起きず過ごしていました。しかし、今年、急に恐れに呑まれそうになる出来事が起きました。

 私は12月にコロナに罹患し、10日間休みました。上司から「この日は有休で、この5日間は病休で申請してください。病休の5日分は傷病手当で普段の給料の6割となります。」と言われ、職場の就業規則も確認せず、そのように申請しました。

 そして、1月末に給料明細を見て、5日分の給料6割も入ってないかも?と思い、家で計算するとやはり、5日分の給料はゼロ。始めは怒りがこみあげてきました。しかし、その後、急に怖くなったのです。6割分の給料が入ってないと言ったほうがいいのはわかっている。でも、それを言うのが怖い。言っても、拒否されるのではないか?ひょっとして、別の申請が必要だったのではないか?「ちゃんと就業規則に書いてます。確認して手続きしなかったのが悪い」と言われるのではないか?強く言われて、言うべきことを言えずにひっこめてしまうのではないか?と恐れに呑まれ、怯えた猫のようになってしまいました。

 頭では言った方がいいし、そもそも、相手を怒らせることをしたわけでないのだから、拒否されても、怒られることはないよ。とわかっていても、言わなければ、と思うと貧弱な子猫のようになってしまう。

 で、気づいた。Stepに出会ってから、それまで恐れて言えなかったことも、言えるようになり、随分と生きるのが楽になっていました。でも、それは私が強くなったのではなく、神様は日々、力を与えてくれているからだったと。私の弱さは変わらない、人生、どん底の時のまま。でも、そんな弱い私に神様は力を与えてくれていたことによって、生きやすくなっていたのです。神様はずっと支えてくれていたのです。神様の力は、母とのバトルや彼への埋め合わせの時だけではなかった。その後もちゃんと日々、支えてくれていて、ただ、私がそれに気づいていなかっただけ。

 そして、自分の無力と神様の力を思い出した私は、跪き、祈りました。「私の恐れを取り除いてください。伝える勇気をください。」と。翌日、私は穏やかに伝えていました。神様は恐れを取り除いてくださり、平穏心を与えてくれていました。

 あの初めて降伏した日、と同じように、毎日、自分の恐れや利己的さを自分では取り除けないと降伏し、神に助けを求め、与えられた力で、神の意志に従う。そうすれば、どん底の頃の自分と変わらない弱いままの私でも、強さを与えられ、どんな問題が起きようとも平安にいきていけるだろう。劇的な出会いをすると、日常の何気ないことが色あせそうになるけれど、日常の中にも神様はいてくださる。日常の中の神様のプレゼントも美しい。日々、感謝して生きていきたい。

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